冨士山下宮小室浅間神社
ふじさんしもみやおむろせんげんじんじゃ
富士吉田市下吉田3-32-18 【お車】東富士五湖道路 富士吉田ICから15分 【電車】富士急行線 富士山駅から徒歩20分
「下宮さん」は古より産土大神として富士北麓に住む人々の信仰の中心でした
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基本情報
神社御名称 | 冨士山下宮小室浅間神社 |
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鎮座地 (住所) | 〒403-0004 山梨県富士吉田市下吉田3-32-18 |
アクセス | 【お車】東富士五湖道路 富士吉田ICから15分 【電車】富士急行線 富士山駅から徒歩20分 |
駐車場 | あり |
電話番号 | 電話で予約問合わせ 0555221025 |
公式サイト | http://www.fgo.jp/~yabusame/ |
神社詳細情報
富士山から流れ来た剣丸尾(けんまるび)溶岩流の突端に御鎮座致します当神社は、延暦十二年(西暦七九三年)、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が東征の折、古吉田の地より富士山に戦捷を祈願し大勝。 その後、征夷大将軍に任じられてからも大いに戦功をあげ、右近衛大将に出世昇進。平城天皇の命による富士郡大宮の宮建てに続き、それまでの神護を謝し大同二年(西暦八〇七年)草創したと伝えられる。 古い記録では、ただ「宮(みや)」と記されており、産土大神(うぶすなおおかみ(地域の守り神)様として富士北麓に住む人々の信仰の中心にあり、このことは当神社の筒粥祭(つつがゆさい)と流鏑馬祭に見られる「富士山参詣者の多寡・十四種の作物の出来高・一年の天候」「各集落の火事・争いごとの有無」といった占い神事からも伺うかがえる。 後のちに富士北麓近隣に多くの浅間神社が祀られるようになると、富士北麓の浅間神社のなかでも富士山から下手にあった為、いつしか「宮みや」から「下ノ宮」となり「下宮浅間(明神・神社・宮)」や「冨士山下宮」と名称が定まったと云われ、以来「下宮さん」として地域に親しまれている。 上吉田・下吉田・松山の三郷、および月江寺(げっこうじ)の総鎮守ともされ、祭礼では月江寺僧による諷経が行われ、僧侶による祈願所もおかれていた。 そして時代が下り、明治に行われた神社制度改革による全国神社の官営化合祀合併の中で、「小室浅間神社」へと改称し、それまで使用されていた「棕櫚(しゅろ)の葉」の神紋も明治以降使われなくなり「大和八重桜」に統一され、同時に月江寺僧の諷経の差し止めと退去が行われ、境内の地蔵や仏碑も破却、明治六年(西暦一八七三年)には芝座衆の権利も村役場に差し出され近代社格制度のなかで郷社となる。 戦後は、毎日新聞社の山梨県信仰投票で一位に選ばれるなど、氏子崇敬者の信仰篤く、昭和三二年(西暦一九五七年)六月一五日には山梨県で二番目となる別表神社加列となる。 古くから、筒粥や流鏑馬やの神事による占いにより地域住民の生活指針となっていた当神社は「後に各村で浅間明神を一祠に祀まつるが、今も猶なお上吉田には子生まれて百日の後、社参するに先まず下宮へ参詣す」と「甲斐国志」に記されている様に、富士吉田一円の産土大神として子供たち、地域の人々を見守り、様々な縁を執り持っている。 | |
ご由緒 坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が東征の折、古吉田の地より富士山に戦捷を祈願し大勝。その後、征夷大将軍を経て右近衛大将に出世昇進。 それまでの神護を謝し大同二年(西暦八〇七年)草創したと伝えられる。 また、古より産土大神(うぶすなおおかみ(地域の守り神)様として富士北麓に住む人々の信仰の中心であった。 | |
御祭神 | 木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと) |
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創建 | 大同二年(西暦八〇七年) |
ご利益 | 子授安産 恋愛成就・縁結び 金運 勝負運 五穀豊穣 家内安全 その他 |
お守り・おみくじ | やっている |
御朱印 | やっている |
供養・ お焚き上げ | やっている |
祈願・お祓い | 七五三 成人式 厄払い 安産祈願 初宮詣 お宮参り 年祝い・長寿祝い 健康・病気平癒 |
各種初穂料 (ご祈祷料) | |
併設する施設 | 大塔宮護良親王桂之古跡(富士吉田市天然記念物) 胎内弁天社 筒粥殿 富士山溶岩流原形 神馬舎 神馬社 本町中村馬場 五社神社 日枝神社 室宮恵比寿神社 水天宮 荒田八幡宮 |
文化財・ 宝物など | 例大祭流鏑馬祭り(山梨県無形民俗文化財) 大塔宮護良親王桂之古跡(富士吉田市天然記念物) |
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