公式

西寒多神社

ささむたじんじゃ
大分市寒田1644番地 大分駅前3、4、5番のりばから、寒田(そうだ)・ふじが丘行き、または、光吉・ふじが丘行きで約30分、「ふじが丘南」バス停下車、徒歩約15分
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豊後一ノ宮 西寒田神社

基本情報

神社御名称
西寒多神社
鎮座地
(住所)
〒870-1123
大分県大分市寒田1644番地
アクセス
大分駅前3、4、5番のりばから、寒田(そうだ)・ふじが丘行き、または、光吉・ふじが丘行きで約30分、「ふじが丘南」バス停下車、徒歩約15分
駐車場
あり (80台)
電話番号
電話で予約問合わせ 097-569-4182
※お問合わせの際はMy神社を見たとお伝えになるとスムーズです。
公式サイト
https://sasamuta.com/
受付時間
09:0016:30

神社詳細情報

創始は、応神天皇九年(西暦二七八年)四月 武内宿禰公勅命を奉じて西寒多山(現本宮山)上に
宮殿を建立し後に大友十代親世公が応永十五年(西暦一四〇八年)三月に社殿を現在地に遷し今日に至る。

『境内神苑』
26,506平方メートルの境内には、樹齢450年余りのふじ(市指定名木)、幹径1m、棚の広さ330平方メートル、花房1.5mにおよぶ稀有の名木と樹齢100年余りの数百株の平戸つつじ。春の新緑、秋の紅葉は荘厳な社殿とともに清遊をかねた霊地です。なお本宮山奥宮まで6kmの登拝路は、一日の家族ハイキングコースとして快適です。

【萬年橋】
県指定文化財
・指定 昭和55年4月8日
軽快で美しい弧線を描く、太鼓橋とも呼ばれる石造単アーチ橋です。全長23メートル、幅3.85メートル。11メートルの径間に対してアーチの長さが3.8メートルと低く、アーチと路面の間も狭いのが特徴です。江戸時代末1862年(文久2)、延岡藩寒田村の庄屋佐藤氏らが発起し、大野郡柴生田村(現在の豊後大野市千歳町)の石工後藤氏らによって同年完成しました。

【鬼の歯形岩】
その昔、霊山には恐しい鬼が住んでいました。鬼たちは麓に降りてきては村人に悪さばかりしていました。
ある時、天照大御神を祀る巫女の親子が本宮山にやって来て、毎日お祭りをしていました。霊山に住む鬼たちにとって、祭りの音は嫌な音でした。
鬼は親子を取って食おうとしましたが、母親が霊山から本宮山まで、一晩で橋をかけられたら食べられましょうと無理難題の約束をさせました。
ところが鬼たちは、一晩で橋を完成させかけたため、あわてた親子は手ミイを叩き、鶏の鳴きまねをしました。すると鬼たちは朝が来たと思い残念がって歯で石を噛み投げました。
そして鬼たちは霊山から居なくなってしまいました。この歯型石は、その時の石とされています。
ご由緒
旧国幣中社、豊後一ノ宮として広く知られる西寒多神社の由緒は、神功皇后が三韓に兵を進めて帰陣の折、西寒多山(現在の本宮山)に行幸して四方の山々を御覧になり、そこに一本の白旗を立ててお帰りになった。その後、人々はそれを敬ってその地に端垣を結び、聖地として崇めるようになり、やがて応神天皇の御代にこの地に宮殿を建立するため朝廷に願い出て、勅許を得た。勅を奉じた武内宿禰は応神九年、豊後国に下向して宮殿の建立に当たった。

さらに7世紀の中ごろ、藤原鎌足が百済救援のため豊前国仲津郡まで来た折、霊夢のお告げを受けて西寒多神社に参拝。老巧化した社殿を修築し、太刀一振りと八幡舞面を奉納した。貞観10年(869)、西寒多神社は朝廷から従五位下の神階が授けられ、延喜5年(905)に勅命により編纂された延喜式神名帳で式内大社とされた。

以後、在地の有力武将の信仰あつく、大友家初代能直を初めとする歴代大友氏の尊崇を集め続けた。応永15年(1408)3月、大友家第十代の新世は尊崇のあまり社殿を山麓の現在の地に遷した。

江戸時代には、この地を領した延岡藩の牧野氏、次いで内藤氏の信仰厚く、たびたび神殿の改修修繕が行われ、藩士による燈篭などの寄進もあった。

明治4年(1871)4月、新たに設けられた社格制度で国幣中社に列格。昭和20年(1945)12月、社格制度の廃止に伴い別表神社となり、今日に至っている。
御祭神
祭神
・月読尊(心の神、精神安定の神)
・天照皇大御神
・天忍穂耳命
創建
応神天皇九年(西暦二七八年)
ご利益
子授安産 病気平癒 交通安全 商売繁盛 学業成就
お守り・おみくじ
やっている
御朱印
やっている
供養・
お焚き上げ
やっていない
祈願・お祓い
七五三 成人式 厄払い 安産祈願 お宮参り 年祝い・長寿祝い 車・交通安全 出張祭典(地鎮祭他) 神葬祭
各種初穂料
(ご祈祷料)
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