彌高神社

いやたかじんじゃ
秋田市千秋公園1-16 【お車】秋田中央ICから16分 【電車】JR秋田駅から徒歩13分
彌高神社の店舗画像1 彌高神社の店舗画像2 彌高神社の店舗画像3

厄年祓 還暦年祝祭 秋田市千秋公園 彌高神社へ

基本情報

神社御名称
彌高神社
鎮座地
(住所)
〒010-0876
秋田県秋田市千秋公園1-16
アクセス
【お車】秋田中央ICから16分 【電車】JR秋田駅から徒歩13分
駐車場
あり
電話番号
電話番号を表示 018-832-4496
公式サイト
http://www.iyataka-jinja.jp/

神社詳細情報

七五三、令和2年合格祈願、厄年祓 還暦年祝祭 古希年祝祭は彌高神社へ

厄年祓、還暦年祝祭、古希年祝祭などお電話にてご予約ください。
ご由緒
明治十四年小谷部甚左衛門他門人有志にて八橋に平田神社を創建、のち秋田県教育会が崇敬母体となり、明治四十二年元の秋田図書館跡地にありたる旧県社八幡神社社殿を購入修理し、平田神社を此処に奉遷、同時に佐藤信淵大人命を合祀し、社名を旧藩主佐竹義和公書明徳館題額「仰之彌高」に因んで彌高神社と改称せり。 大正五年千秋公園現在地に奉遷。 大正八年二月県社に昇格。昭和十八年十一月二日平田篤胤大人命百年式年祭、昭和二十五年十一月三日佐藤信淵大人命百年式年祭を盛大に執行せり。
御祭神
【平田篤胤大人命】
安永5年(1776)8月24日久保田城下、現秋田市中通に佐竹藩士大和田清兵衛祚胤の四男として生まれる。20歳に志を立て、江戸に出て苦学力行を極める。25歳の時、備中松山藩士平田篤穏の養嗣子となる。享和元年(1801)本居宣長翁没後の門人となる。享和3年(1803)28歳には最初の著書「呵妄書」を著わし、以来精勤刻苦和漢洋の書籍を読破し、いよいよ学問に心血をそそぎ、国家の蘊奥をきわめ、遂には皇朝古道学の泰斗をなし、敬神崇祖の心をといた。生涯に著述百部千余巻にして、古史、古道、易学、暦学、仏学、道学、儒学、文学、語学、尺度量法、諸宗門、和漢洋学に亙って万搬の考究をし、「霊能真柱」「古史伝」「古道大意」は神道史上における重要な著書であり、篤胤の思想の中心となるものであった。  その学問と思想は地方神宮、郷土、豪農、商人、武士から庶民にいたるまで受け入れられていった。門人553人、没後の門人1330人余と多く、ついには白川神祇伯家学頭となり、吉田家の依頼をうけて古学教授ともなった。天保12年(1841)66歳の時、幕命により国許退去によって帰藩、天保14年(1843)閏9月11日68歳で没する。

【佐藤信淵大人命】
明和6年(1769)6月15日秋田県雄勝郡羽後町に生まれる。天明4年(1784)16歳の時、父の客死後、遺訓に従い江戸に赴き宇田川槐園の門に入り蘭学を修めた。また、経済学、天文、地理、動植物の学、暦算測量等を学んだ。文化4年(1807)徳島藩に招聘せられて兵学講師となる。この時『鉄砲窮理論』を著し、自走火船を考案する。これらにより一気に名声が上り、その門に集る者が多くなった。その後西洋の兵学、砲術、航海、通商を説くにあたり、時の嫌疑に触れる恐れがあり上総国大豆谷に退居し、家学大成に志を立て専ら著述に従事する晴耕雨読の生活を続ける。
文化12年(1815)47歳で平田篤胤の門人となり、48歳のとき江戸払を命ぜられ諸国を遊歴する。諸国遊歴にあたって気候、天産、風俗、人情を視察するとともにこの間に考究せる学問は多岐に亘り、著述三百種八千巻といわれる。文政2年(1819)大豆谷に三度目の僑居をし父祖伝来の宿志達成に精魂をかたむけ、『農政本論』『草木六部耕種法』の著述を完成するに至り、遂に家学を大成した。辛苦窮乏の間にも意欲は旺んで、その気慨は常ならず、経国の学問の一大組織を完成し、経世済民の為に生涯をつくした。嘉永3年(1850)1月6日82歳で没する。
創建
明治十四年
ご利益
健康長寿 交通安全 商売繁盛 五穀豊穣
ボーイスカウト
ガールスカウト
彌高太鼓の会
お守り・おみくじ
やっている
御朱印
やっている
供養・
お焚き上げ
やっている
祈願・お祓い
七五三 成人式 厄除 安産祈願 初宮詣 お宮参り 結婚式 年祝い・長寿祝い 出張祭典(地鎮祭他) 神葬祭 その他
各種初穂料
(ご祈祷料)
続きを表示